ミシシッピ川以東のルイジアナ

わたしのブログへようこそ!出てけ

日本語との別れ

これは何

日記です。

近況報告

ちょっと前に入試を受けたばかりだと思っていたのだが、何もせずうだうだしているうちに気がつけば大学生活も4年目ということで、めでたく4年生進級&研究室配属と相成った。

僕の専攻は一応計算機科学ということになっているのだが、僕が元々やりたかったのは数理論理学や公理的集合論といった計算機どこやねん*1分野で、数値計算系の研究室が主である電通大にはそういうことを学べる場所があまりないので、割と進路が迷子になりつつあった。

そんなこんなで最終的に配属された研究室は組み合わせ最適化を看板に掲げてはいるものの、全然違うことをしている人もいるのでよくわからない。僕はというと最近は型理論 (type theory) に興味があって、何だかんだ計算機寄りの分野に戻ってきた形だ。卒業研究もこれについてできればいいなと思いつつ教科書や論文を読み漁っている。

消える日本語

そんな話をして何を言いたいかというと、研究活動を始めてから英語を読む機会が非常に多くなったということである。世の技術者や研究者は日常的に英語を用いているというので、そんなものなのだろうが。

型理論の鉄板本に B. C. Pierce "Types and Programming Languages" というものがあり、『型システム入門 プログラミング言語と型の理論』(オーム社)という題名で和訳もされている。

mitpress.mit.edu

www.ohmsha.co.jp

しかし現在は絶版で、ブックオフくらいでしか調べてはいないが中古本もなかなか手に入らず、今から読もうとすると電子書籍を買わざるを得ない。しかしこれが中々に高い(原著で$95*2、和訳ですら7000円近くする)こともあって本書は避け、代わりにネットを漁って H. Geuvers*3 "Introduction to Type Theory" を見つけた。

https://www.cs.ru.nl/~herman/onderwijs/provingwithCA/paper-lncs.pdf

査読論文や出版社の書籍ではなく、著者がウルグアイだかで行った講演の講義ノートだ。もちろん全文英語で、機械翻訳に突っ込んでも微妙なものしか出力されなかったので、諦めて最初から原文で読むことにした。

本稿で主に扱っているのは単純型、多相型、依存型あたりの話題で、後半二つはそこまで詳しく解説されているわけではない。他の体系も知りたいのでどちらにせよ他の資料も並行して読まなければならないのだが、インターネッツに転がっているのは大体英語で書かれた記事である。 例えば特に気になっているのがModal Type Theoryであるが、ネットで検索しても日本語の情報が全く出てこないので、仕方なくnLabの記事を眺めている。

ncatlab.org

結果として最近の僕は今までの人生でダントツに英語を読んでいる。元々英語は非常に苦手であり、文法まで含めてちゃんと読もうとすると時間が掛かって仕方ないのだが、特徴的な単語だけ拾っていけば意外とスラスラ進むものだ(教科書や技術文書の殆どを構成するテクニカルタームは視覚的に目立ちやすく、かつ一つの意味しか持たないことが多いので楽である。逆に日常会話のような内容は多義語が多く、文構造をちゃんと考えないといけないので全然わからない)。

すると自分でも驚いたことに、次第にそれらの単語を英語”そのまま”に思考し、解釈するようになってきた。この感覚を言葉で正確に表現することは難しいが、例えば『型付け』*4という概念を非言語的にぼんやりと考えるとして、そこから「型付け」でなく "typing" という単語が即座に想起されたり、もしくは思考領域へのラベリングに用いられるというイメージである。そのことを自覚した僕は薄ら寒さを感じた。

言語的相対論

言語的相対論は言語が思考を決定づける*5と考える理論のことで、特に20世紀前半に盛んに扱われた。同世紀後半にはチョムスキー生成文法の立場から批判を浴びるようになるが、言語学認知科学については全然詳しくないのでそうした議論は考えない。

例えば交通信号機における進めの灯火は「青信号」と呼ばれることが多いが、大抵の場合青信号は緑に近い色をしている。これは日本語における「青」の指す範囲が広いことに起因しており、我々日本人は緑色のものもなお広義の青色の範疇として自然に認める(青葉、青海苔、青虫など)。同じような文化は中国語やベトナム語にもあるらしいが、少なくとも英語圏では一般的でなく、青信号は "green light" と呼ばれる。 逆に英語は我々が単に「牛」と呼ぶものに対しても(明らかに形態素的にそれぞれ独立した)多くの語彙を持ち、雌牛は "cow" で雄牛は "bull" だし、牛肉は "beef" である。

こうした違いはもちろん各々の言語が話されてきた地域の歴史的経緯に影響を受けたものであるが、そうした背景情報を知らなかったとしても、日本語話者が青色だと思う灯火を英語話者が同じ様に青色だと思うことはない。

そしてこの論によれば、僕の思考が捉える世界もやはり思考に用いる言語によって異なることになる。今は技術的議論の一部が英語に置き換えられたに過ぎないが、もし将来的に僕が日常会話から仕事まで全てのコミュニケーションを日本語でない言語で行うようになったとしたら、その僕はもはや日本語で思考する僕とは別の人間と言っても近しいのではないか。

日本語への愛着

上記のような話とは別に、僕は単純に日本語に愛着を持っている。曲がりなりにも僕の母語であるし、僕の家族や友人らの母語であるし、二十余年来育ってきた日本の(事実上の)公用語であり、今までほとんどの場面において日本語で学問をしてきたからである。

駄々をこねてもどうにかなる問題ではないが、今さら英語で学問をするというのは正直とても癪に障る。

自己防衛、投資、あと海外移住、日本脱出

とはいえ何事も国際化が叫ばれる昨今、かつ社会保障や労働問題の将来について希望の持てない情報を連日流し込まれる我々にとって、日本国外での生活ないし少なくとも日本語を主としない生活を全く考えないことは不可能である。

あ〜〜〜〜〜〜〜超好景気でアホほど仕事があって日本語が公用語の国ができねえかなぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

*1:もちろん近くはあるのだが

*2:円安がカスすぎる

*3:Radboud Universityというオランダの大学にいるらしい

*4:ある体系における項(ラムダ式など)について、各々の文脈における型を付与すること

*5:あるいはウォーフのより弱い表現を借りれば、思考の習性を与える